言語文化教育研究:Studies of Language and Cultural Education

第6巻(2007年春)

論文

内在する思いを言語化する教室活動の効果と課題――自己把握・他者提示を中心とした対話型教室活動を観察して
大野のどか
概要: 本論文は,早稲田大学日本語教育研究科の実践研究の授業における,「総合活動型日本語クラス(総合)」の参与観察からの考察を述べるものである。観察から明らかになったことは,「総合」における自己把握と他者提示の繰り返しのプロセスは,学習者の内在する思いを引き出すとともに,日本語で自己の思いを言葉にして,他者とのやりとりをすることで,結果的に日本語での表現力を高めていく可能性があるということである。一方で,自己把握が進むほど,逆に他者提示が少なくなることも観察されたことから考えられる,対話型教室活動の課題についても併せて考察する。
キーワード: 内在する思いの言語化,自己把握,他者提示,対話型教室活動
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教育=学びのための実践に向けて――「正しい日本語」観はどのような主体を構築しているか
佐藤正則
概要: 「正しい日本語」観は日本語教育における教師/学習者の力関係にどのような機能を果たしているのであろうか。本稿では,まず,教育制度における「真理」が日本語教育では「正しい日本語」というイデオロギーとして機能し,その呼びかけに応じるように教師/学習者相互が従属化=主体化していくことを述べる。後半では従属化された主体とは別の主体を志向していくための「教育=学び」の可能性を論じていく。最後に従属化された主体とは別の主体性における学びの場として,個としての思考の場,他者との対話の場,文化リテラシーとしての学びの場を提唱する。
キーワード: 正しい日本語,権力,呼びかけ,従属する主体,学びとしての教育実践
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日本語教育における「対話」アプローチの試み――触媒としての「文学」から「対話」を生成するコミュニティ設計
田邉裕理
概要: 本論考は,JSL生徒の直面する問題を取り上げ,その解決方法として期待される『内容重視の日本語教育』がいかなるものかその内容を批判的に考察する。その上で「文学」という触媒をきっかけにして起こる「対話」アプローチの必要性を取り上げる。
キーワード: JSL生徒,内容重視の日本語教育,「対話」アプローチ,触媒としての「文学」,「空所」と「否定」,「十人十色の文学教育」
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座談会

「考えるための日本語実践」をめぐる議論
市嶋典子,早稲田大学大学院日本語教育研究科言語文化教育研究室(編)
はじめに: 今回,『考えるための日本語―実践編』の執筆者,牛窪隆太さん,武一美さん,津村奈央さんと明石書店の編集者,西村優子さん,「考えるための日本語実践」にボランティアと参加してくださった文章談話研究室,博士後期課程の寅丸真澄さん,信森あずささんにお願いして,「考えるための日本語実践とは何か」というテーマで,座談会を企画した。本稿では,この座談会で展開された議論の内容を報告する。
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近況

  • 将来について考える / 新居知可子
  • 世界に届く声を持つために / アンドラハーノフ・アレクサンダー
  • 「考えるための日本語」とは何か / 五十嵐まゆ
  • 「日本で思ったこと」 / 牛窪隆太
  • 「現状を捉える」 / 大西博子
  • 「教室を見る側から作る側に立って」 / 大野のどか
  • 近況 / キムヨンナム
  • やや疲れ気味 / 佐藤正則
  • コミュニティクリエイターな生き方 / 蛇抜優子
  • 私たちの現場から / 武一美
  • ディスコミュニケーションから始まるコミュニケーション / 田邉裕理
  • 芽吹きの春 / 橋本弘美
  • 「考える」な日々 / 古屋憲章
  • 近況 / 松井孝浩
  • なぜ私はこれをするのか:実践を振り返り,それを規定する様々な要素を捉える / 山本冴里

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編集後記

私の思想
市嶋典子(言語文化教育研究第6号編集責任者)
言語文化教育第6号では,新たな試みとして,「考えるための日本語――実践編」[amazon.co.jp]の執筆者との座談会を設け,その内容を本誌に掲載することにした。座談会には,執筆者の他に,早稲田大学の総合活動型日本語教育の実践に,ボランティアとして参加してくれた文章談話研究室,博士後期過程の寅丸さん,信森さんと,明石書店,編集者の西山さんが参加してくれた。座談会の議論では,「実践の考え方」,「学習者ニーズの問題」,「学習者主体」,「教師の役割」,等,様々なテーマが持ち上がり,活発な議論が展開された。私は,司会者として,その場に居合わせたのだが,座談会の中で,西山さんが,「この本に書いてあることは,方法ではなく,思想だと思っています。」と力強く述べていたことが,今でも印象深く心に残っている。
私は,現在,大学内外あわせて,週8 コマの日本語クラスを担当している。活動型の実践と,教科書を中心に授業を進めていく実践を平行して走らせている。どのクラスも,一人で担当するのではなく,3 人から5 人の教師で一つのクラスを動かしていく。実践を共同でデザインする段階では,教室の目指すべき方向性を徹底的に議論しながら作っていく場合と,前例を踏襲するだけの場合とがある。後者の場合は,決められたスケジュールに沿って,割り当てられた担当部分をこなせば,それなりに授業は進んでいく。やっかいなのは,前者の方だ。なぜなら,前者の場合,実践を自立的に考えなければならず,教室担当者の思想が問われることになるからだ。
恥ずかしながら,私の場合,思想といっても,さほど確固としたものがあるわけではない。むしろ,実践の中で,同僚と議論しながら,学習者に接しながら,また先行文献の言説に影響を受けながら,自分の立ち位置を見定めているような状況にある。考えながら,迷いながら,具体的な実践を通して,自己の思想のあり方を模索していると言える。私は,この試行錯誤のプロセスこそが,実践研究であると考えている。このプロセスは,やっかいでもあり,苦痛でもあり,一方で,興味深く,刺激的なものでもある。とりあえず,退屈する暇はない。そして,「私の思想に基づいた日本語教育実践」というのは,このようなプロセスを通してこそ,醸造されていくのではないかと思っている。「私の思想」を形にするためにも,これからも,ずっと,実践研究は続いていくのだろう。こうして,永遠に,寝不足の日々が続いていくのだろうけれども・・・。

立ち竦む日本語教師へ――あとがきにかえて
細川英雄
戦後の日本語教育は,「日本語の語彙・文型を確定し,それを外国人に効果的・効率的に教える」ことに全力を傾けてきた。最初の危機は,70年代後半から80年代初頭にかけての留学生数の急増だった。このとき,多くの日本人が日本語を教えるのは難しいと実感した。とくに言語を構造的に捉える眼を持たない国語教師にとって,第2言語としての日本語教育はまさに異文化だったに違いない。すべての日本人が日本語教師となるべきであるというような議論が展開されたのもこの頃だった。
しかし,ここで「日本語の語彙・文型を確定し,それを外国人に効果的・効率的に教える」ことの正当性が論証されたわけではなかった。むしろ,与えられたことをきちんと学ばない留学生は,落ちこぼれであるかのように言われ,4級から1級までのどのランクにいるかがあたかも人格判定として機能するようになる。
第2の危機は,90年代からの「移動する子どもたち」への日本語教育だろう。
ここでは,「日本語の語彙・文型を確定し,それを外国人に効果的・効率的に教える」ことに腐心してきた日本語教師がみな立ち往生したのだ。つまり,言語活動をそのような固定化した素材として一方的に教育するという矛盾が一気に噴出したといっていいだろう。
第1の危機が,立ち竦む国語教師だとするならば,第2の危機は,立ち竦む日本語教師である。
こうした90年代後半の社会の中から,「総合活動型日本語教育」は生まれた。今回,明石書店から上梓した『考えるための日本語【実践編】――総合活動型コミュニケーション能力育成のために』は,本誌の座談会でのやり取りからもわかるように,この活動に取り組む担当者一人ひとりの思想の自己表現に他ならない。学習者のニーズや効率性を楯に,自己防衛に走る日本語教師には,自らの思想を表現する場を持たない不幸がある。だからこそ,そうした日本語教師は,自分の立場を自分のことばで語れないのであろう。
90年代の危機に出会って,今立ち竦んでいる,そのような日本語教師たちにむけて自己恢復のためのひとつの救いの場がここにあるということを『実践編』は明確に提示している。(ほ)