表紙この研究集会の成果は,単行本として出版されました。
細川英雄,鄭京姫(編)(2013).『私はどのような教育実践をめざすのか――言語教育とアイデンティティ』春風社.[Amazon.co.jpで購入目次とまえがき,あとがき

開催目的・意義

実行委員会代表:細川英雄(早稲田大学)

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来たるべき複言語・複文化社会状況に対応する言語教育実践をめぐって,2012年4月より国際対話プロジェクトを実施し,同年9月に国際研究集会を開催する。

『ヨーロッパ言語共通参照枠』(CEFR)で提起された複言語・複文化主義は,多言語多文化主義の「多:MULTI」が社会のあり方に焦点を当てていたのに対し,さまざまな言語や文化を背負う個人を指す「複:PLURI」という概念を導入した。この概念の下での個人は,表層的・ステレオタイプ的な見方を越え,行為者としてそれぞれの社会の多様性や複雑性を理解し,さまざまなテーマの中でその多様性・複雑性を深く考えることができるアイデンティティをもったものとして捉えられる。そして言語教育は,そうした個人それぞれが民族・国境を越えて相互理解するために必要とされ,言語を学ぶことは,その言語を話す多様・複雑な社会や個人を学ぶことであるという前提におかれる。

このような複言語・複文化主義の思想は,日本の言語教育に対してどのような力を持つことになるのか。この課題を解決するためには,この複言語・複文化主義と日本における言語教育との関係を検討する必要がある。

しかし,たとえば学校教育としての国語教育においては,めまぐるしい「国際化」の中,個人と社会への総合的な視野を失い,国語の授業についていけない日本人子弟も多くなっている。外国につながる子どもたちへの教育の緊要性が叫ばれる近年でさえ,移民とその家族のための言語教育とアイデンティティの問題を真正面から捉える研究はなお数少ない。

また,日本は,戦後,国際化時代の外国語教育として,英語を無反省に受け入れてきた。そして,現在,英語教育は,小学校のカリキュラムの中で,ことばと人間の,あるいはことばと社会の関係を子供たちに考えさせる余裕を失わせている。複言語・複文化主義の思想からは,国際化と英語を一直線につなぐ発想こそが批判されよう。

言語教育がことばと人間形成の本来的な機能を果たしえなくなっているこうした現実を,私たちは直視しなければならない。ただ一方的にことばを教えるという言語教育ではない,多様性・複雑性を前提としてそれぞれのアイデンティティを考慮した,新しい言語教育実践のコンセプトが求められている。

確かに言語教師の多くは,教材を一方向的に教えることへの疑問を抱きつつある。しかしその一方で,もし教材がなかったら自分は教室で何ができるのかという不安の中にもいる。この不安は,「わたしはどのような教育実践をめざすのか」という自分自身への問いの欠如からくると考える。そして多くの教師は,この問いを自分以外の他者と交換する機会もなく,特に海外で日本語を教える現場では,いつの間にか孤立してしまいがちである。こうした状況を乗り越えるには,教育関係者間に「わたしはどのような教育実践をめざすのか」という問題に向き合うネットワークが築かれる必要がある。

そこで,2012年4月より早稲田大学日本語教育学オンデマンド講座(テーマ型)において,「私はどのような教育実践をめざすのか―日本語教師のための国際ネット対話プロジェクト実践」を開設した[案内]。このプロジェクトは,世界各地(国内外)の日本語教師および教師希望者を対象に,インターネットによる対話を実施し,それぞれにとっての「私はどのような教育実践をめざすのか」という問いを明確にしていくことを目的としている。まずインターネット上にプレ番組を配信して参加希望を募り,その参加者を対象に,ネット上でのやり取りを経て,それぞれのめざす教育実践についてのレポートをまとめる作業を行う。

さらにこの対話プロジェクトの成果を踏まえ,2012年9月には「私はどのような教育実践をめざすのか―言語教育とアイデンティティ:What Do I Aim for in My Class?: Language Education and Identity in Plurilingual / Pluricultural Environments」と題して国際研究集会を開催し,ヨーロッパ及びアジアから言語教育界の第一線で活躍する海外教育研究者を招聘する。

ヨーロッパからは,長年にわたりフランス・パリ第8大学で言語教育研究に携わるピエール・マルチネス氏Pierre Martinez)を招聘する。マルチネス氏はINALCOの研究グループPLIDAM('言語とアイデンティティの複数性の教育,習得,調停)や,パリ第3大学のDILTEC(言語,テクスト,文化の教育)- PLURIFLES(複言語状況,第二言語としてのフランス語)グループの中心メンバーとして活躍するなど,複言語・複文化主義の言語教育研究における第一人者の一人に数えられる。一方,隣国・韓国からは,李徳奉氏이덕봉)を招聘する。李氏は,知日家としての評価も高い上,韓国「教育課程」作成メンバーでもあり,言語教育と言語教育政策の橋渡しのできる数少ない人物でもある。最近では,「言語を捨てる知恵」というエッセイで,国際文芸エッセイ部門新人賞を受賞していて,新しい言語教育への示唆に富む視点からのアドヴァイスが期待できる。さらに,社会言語学の立場から,関西学院大学の森本郁代氏を招く。

この3氏に細川英雄を交えた3人により,言語教育政策的観点をも考慮して検討し,世界の言語教育の潮流と枠組みの中で,アイデンティティに関することばの教育実践の新しいあり方について,複言語・複文化教育の再文脈化をめざした抜本的な議論を行う。

また,対話プロジェクトの成果とその実践については,ここでポスター発表として公開される予定であり,ここで質的な意見交流を行い多角的な交流の場を形成する。これは,一方的に海外の理論をまなぶという姿勢ではなく,対話プロジェクトによってなし得た知を言語教育実践の場としての研究集会で相互に交流するというプランでもある。また,同時に研究発表も広く公募し,より開かれた領域横断的な議論の場を構築する。なお,以上の成果は,単行本の形で社会に発信される。

こうしたネットワーク構築と研究集会の連携開催は,これまで他に類はなく,国内外の言語教育への大きなインパクトとなるだろう。とくに近年の日本において,移民とその家族の移動がその質と量において従来にない様相を呈している中,多様性・複数性とその思想のあり方,およびそれぞれのアイデンティティを考慮した新しい言語教育実践のコンセプトについて,議論を深めることがまさに求められている。ことばの教育に関係する多くの方の参加を期待するものである。