言語文化教育研究:Studies of Language and Cultural Education

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第4巻(2006年春)

論文

相互作用に関する考察――共有化に至る相互作用のプロセス
市嶋典子
概要: 本稿では,相互作用の意義とその質的側面について考察する。具体的には,学習者4名を対象に,グループ内での相互作用を活動の基軸とし,自己の考えを明確にし,表現することによって,教室参加者が有機的に関わりあうことを目指した総合活動型日本語教育を実践しその活動を分析した。そして,相互作用の具体的なプロセスと,そのプロセスにおいてメンバーの間に作り出されたものについて検証を試みた。今回の分析では,相互作用の質の異なる3つの型の相互作用を抽出することができた。そのプロセスにおいて,メンバー同士の考えやレポートのテーマが共有化され相互的関係が築かれていくことが確認された。
キーワード: 二方通行並列,制限された三方通行,完全な三方通行,共通性の発見,テーマの共有化
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言語能力はいかにして評価するべきか――ACTFL-OPI における言語能力観の分析と考察をとおして
大西博子
概要: 本稿では,相互作用の意義とその質的側面について考察する。具体的には,学習者4名を対象に,グループ内での相互作用を活動の基軸とし,自己の考えを明確にし,表現することによって,教室参加者が有機的に関わりあうことを目指した総合活動型日本語教育を実践しその活動を分析した。そして,相互作用の具体的なプロセスと,そのプロセスにおいてメンバーの間に作り出されたものについて検証を試みた。今回の分析では,相互作用の質の異なる3つの型の相互作用を抽出することができた。そのプロセスにおいて,メンバー同士の考えやレポートのテーマが共有化され相互的関係が築かれていくことが確認された。
キーワード: 二方通行並列,制限された三方通行,完全な三方通行,共通性の発見,テーマの共有化
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実践報告学校/教室という空間を超える試み――初級日本語における実践
佐藤慎司
概要: 本稿ではまず日本語教育で自明視されあまり振り返られることのない「学校」という空間についてもう一度見直し,カリキュラムの進度,授業形態,評価という問題点を指摘する。その後,その問題点を乗り越えるような多和の実践,ステップメソッドを紹介する。その実践では評価というものは学習者をレベルに振り分ける手段としてではなく,学習者がわかるということに結びつけるきっかけとしてとらえられており,様々な授業形態,また進度を調整することによって学習者の個人差にできるだけ対応している。
キーワード: 学校文化,学習進度,授業形態,評価,学習者の個人差
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理解を検証する対話――対話において二人目の他者が持つ価値
山本冴里
概要: 理解の検証装置としてはどのような他者とのどのような対話が有効であるのかという問いに基づき,学習者と複数の他者との対話過程を分析した。その結果,ある他者が学習者に自分の意見をぶつけた時よりも,別の他者がその言葉を比較・相対化のために二次利用した時のほうが,学習者が理解を検証・更新しはじめる契機として有効である様子が抽出された。
キーワード: 理解の検証,対話,第二の他者,比較,相対化
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日本語教育における自己を表現する力の育成について――「形式へのこだわり」意識の変容の考察を通して
陸麗青
概要: 本稿は「形式へのこだわり」意識の変容と自己表現力の獲得について考察することを目的とする。まず「形式へのこだわり」意識とはなにか,自己表現力とは何かについて論じることを試みる。次に,授業データ分析を通して,両者の関係性について考察する。
キーワード: 「形式へのこだわり」意識,自己を表現する力
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近況

阿部葉子・新井久容・A.アンドラハーノフ・市嶋典子・牛窪隆太・遠藤ゆう子・大西博子・小田晶子・狩野倫子・キムヨンナム・古賀和恵・武一美・鄭京姫・橋本弘美・宮口さや子・村上まさみ・森元桂子・山本冴里・山本玲・陸麗青・林逸菁・渡貫善華

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編集後記

自分の思考を自分の表現にし,自分を発信するとは
アンドラハーノフ・アレクサンダー
早稲田大学大学院日本語教育研究科の,細川英雄が火元責任者をつとめる言語文化教育研究室の雑誌『言語文化教育研究』第4 号の出版に何とか漕ぎ着けた。原稿の募集から,査読の依頼とその結果の集計や最終的な組立てまでの作業を任された私は,3 ヶ月間の心身ともに忙しい日々を経て,今号を読者の皆さんに,ほっとした気持ちと共に届ける次第である。
今号は理論的な考察の論文と,早稲田大学のみではなく,アメリカのコロンビア大学からの実践報告も掲載され,雑誌そのものが前号に比べて多少“痩せて”はいるが,内容は相変わらず充実している。そして,この研究室の慣わしとして,在学生と修了生の「近況」も“おまけ”として知ることができる。
論文・実践報告の第1 部では,この研究室,さらにこの研究科全体がモットーとしている,理論と実践の結びつきの精神が強く出ている。おかげで,ごく実用的な学問として捉えられがちな日本語教育という研究分野の原点を再確認し,日本語教師の専門性とは何かという問い直しに,読者の皆さんも注目できるはずだ。今号の執筆者たちの論文からも明らかなように,現場から浮いた理論を理想として述べるばかりで実践の報告が伴われていない場合には説得力が欠け,一方で実践だけを理論的な基盤なしに提示しても教育活動自体の目的と実践分析の指標が見失われてしまう。ここで最も重要なのは,理論と実践,その2 つのもののバランスと,言語・文化・社会とその教育は何なのかという明確なビジョンを背景に持つことである。
特にこの研究室で必ず問われる,それぞれの「言語文化観」と「言語文化教育観」の形成,自分の思考を把握すること,さらなるその思考と表現との往還,そしてその発信の必要性はどのように現われているかという精神を持つ今号の論文を,読者の皆さんのクリティカルな観察眼に提示したい。
また,実践報告の他に,言語教育において(実は全ての教育において同様のはずであるが)避けては通れない問題としての「評価」に関する理論的な考察も興味深い。今日の教育で主流を占めている評価に対して疑問を持っていれば,自分の考えのばねになるようなヒントがあり,今後の議論の展開に役立つだろう。
さらに,この研究室の関係者が普段何を考え,どのような人生を歩んでいるかを,第2 部の近況編で確認することができる。もちろん,それは物理的な所属や人生設計ばかりではなく,その考えの行方と,日本語教師は日々どのような問題に直面しているかもわかる。ご自身の現在の状況を振り返る機会ともなり得よう。
ここからは少々個人的な話になるのだが,長いこと私は「人間の中身とは何なのか」と考えている。そして,「本当のコミュニケーションとは何か」というのも大きな課題だ。この問題提起には,下記のような体験にきっかけがあった。以前から私は,ロシア語と日本語の通訳をする仕事を多く引き受けていた。その活動に次のような一例がある。まだ駆け出しの頃,お互いの言語が音楽にしか聞こえないような二人のビジネスマンが酒の席で話し合う間に入り,私は一言一句を通訳していた。
そろそろお酒も回りだしたようで,彼らは私の存在を忘れ,自分たちはまるで兄弟のようで,国境と言語の違いとは関係なく分かり合えるということを言い出し始めた。その瞬間,私に冒涜的な発想が生まれた。「この人たちが満足さえすれば,全く別の内容でも,しかるべき結果につながる話を作ってしまえば,私は通訳として喜ばれ,話し合う二人も完全に通じ合っているような幻想に陥るだろう。」これは通訳としてけしからぬ,危ない考えではあるが,これを機に,コミュニケーションの幻想性に気づいたわけだ。
だが,よく考えれば自分の考えに対しても,他者とのコミュニケーションに対しても,このような幻想を,同じ言語においても意識せずして,私たちは抱いているのではないか。言語教育においても,正解が誰かに準備され,形式ばかりの教育を受けているのでは,自分のことばが育たず,発することばに説得力も感じられない場合がある。真心が込められていない,誰かのことばの焼き直しになってしまっているのが原因だと思う。それは教室の場面における場合も,マスメディアのように「何が格好よく,正しいのか」と他者に教えられてしまう場合も然りである。他者の言説の再生産や借り物の現実ではなく,クリティカルな姿勢から生まれる「自分のことば」で自分を伝えることは,我々が生きている時代に,自分の声が届くようにするためには,とりわけ重要でないかと思う。このような自分の思考を,自分の表現にして発信する,いわば「自分のことば」を,言語教育で実現すべきであろう。
このような個人的な見解は,実は『言語文化教育研究』を貫く,この研究室の考え方とも一致している部分が大きい。それは自分の思考と表現の往還と,その発信を目指す言語教育がキーワードになるのではないか。今後も,日本語教育の分野から,このような問題意識と解決方法に関する考察を“自分のことば”で発信し続けていただきたいものである。

言語文化教育研究室が求めるもの
細川英雄
このところ,言語教育と政治の問題について考えている。
直接法の祖といわれる山口喜一郎の著作なども読みながら,社会,制度,権力...などの問題と,言語教育が具体的にどのように関わるのかということについてメモをつくったりしている。
たしかに戦前の植民地主義的日本語教育は批判されているが,では,戦後の日本語教育の教育実践は具体的にどのように変わったのだろうか。
80 年代の中曽根内閣の留学生10 万人計画に伴う日本語教師の増加は,教室実践の内実とどのように関わっているだろうか。
教室という単位で考えた時,あるいはまったく同じことが繰り返されているのではないだとうかという気がする。訳読法がオーディオ・リンガルへ,またコミュニカティブ・アプローチへと変化したといっても,やっていることが同じだったら,また同じことが起こるに違いない。
日本語教育と政治の関係を考えるとき、しばしば話題になるのが、日本語教師の自立性の問題だ。
さまざまに管理された環境の中での授業設計といっても、何を考えればいいのだろうというような意見をしばしば聞く。また、日本語教師は縁の下の力持ちなのだから、余計なことは考えず、与えられたことをしっかりやればいいのだという主張にも出会う。
しかし、このような現実主義とその論理のすり替えが、日本語教育の現場をより不透明なものにし、制度や権力の格好の餌食になっていることは否めない。
まず必要なのは、「わたしの教室」「わたしの学校」の姿だろう。
これが思い描けなければ、どんな活動も制度や権力に言いなりになるにちがいない。制度や権力に対抗するには,とにかく教育実践の内実をしっかり問い直さなければならないだろう。そのことがまさに「実践研究」なのではなかろうか。
言語文化教育研究室では、とにかくこのことを発信する個人であることが求められる。(ほ)