言語文化教育研究:Studies of Language and Cultural Education

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第5巻(2006年秋)

論文

日本語教室における表現活動の一考察――考えの共有化をめざす教室参加者間の相互関与の試み
阿部葉子
概要: 本稿では,日本語を表現する教室がいかなるコミュニケーション能力の涵養をめざすのかを述べ,筆者の実施した表現活動で観察された教室参加者間の相互関与の局面を実践データとして具体的に記述することを試みた。まず,従来,多くの日本語教育実践に取り入れられている教室の「外」に想定された「日本人との接触」によってネットワークの多元化を狙う実践を批判的に検証し,その問題点を指摘した。次に,教師-学習者間の一元的・依存的コミュニケーションを克服するために,教室内における参加者の相互関与に注目する意義について述べた。最後に,「日本人のコミュニケーション」をモデルとして日本語習得をめざす教育実践とは異なる立場から,「意味づけ論」を援用し,考えの共有化に向けて教室の参加者が関与し合い,互いに議論の可能な「共通基盤」を形成し,言葉を探し,創り出し,創り直していく表現活動の重要性を実践データの分析から提示した。
キーワード: 「日本人との接触」,相互関与,考えの共有化,一元的コミュニケーション,共通基盤の形成
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日本語教育における「自律性」の転換
大西博子
概要: 本稿は,80年代から多くの論文でみうけられるようになった日本語教育における「自律性」という概念を,その文脈と内実を問い直すことによって問い直したものである。その結果,学習・言語能力観の点から「自律性」の転換が必要であることがわかった。それは学習方法や学習内容を技術・知識として習得するための「自律性」ではなく,コミュニケーションの主体としての「自律性」への転換である。結論では,それを教育実践へと具体化するための課題を示した。
キーワード: 自律性,多様性,コミュニケーション,社会,言語
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自己を捉えなおし,自己を語る活動についての一考察――「総合活動型日本語教育」におけるある「帰国生」の事例から
小田晶子
概要: 集団カテゴリーへ自己同一化して行われるコミュニケーションは,カテゴリー間の境界を構築し,対人コミュニケーションを阻害する。本稿では,アイデンティティを流動的・複層的なものと捉えなおしたうえで,「総合活動型日本語教育」を「自己を捉えなおし,自己を語る活動」という視点から,「帰国生」と呼ばれる一人の受講生の活動を通して,その意義を考察した。その結果,他者から規定されるアイデンティティを主体的に捉えなおし,語りなおすことにより,「帰国生」という集団カテゴリーの表象に揺さぶりをかける可能性,また,「自己を捉えなおし,自己を語る」活動が自己理解,自己肯定に結びつき,「他者との共生」を可能にする「自己との共生」につなるのではないかという二つの意義を見出すことができた。
キーワード: 「帰国生」,アイデンティティ,自己を捉えなおし,自己を語る活動,「総合活動型日本語教育」
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日本語教育における「体系」とは
金相郁
概要: 近年日本語教育では,学習者主体の理念を中心に様々な形態の教室が設計され,従来までの日本語教育から抜け出し,新しい方向性を見出す傾向が多く見られる。本稿では,その変化の大きなポイントとなっていることを「何を」という「体系意識」と規定し,その「体系」とは何か,また,それは戦後日本語教育から現在に至るまでどのように取り扱われてきたのかについて考える。特に本稿では,筆者の日本語学習暦において自ら感じたものを問題意識の中心にし,日本語文法,日本文化における「体系」を考察する。また,日本語教育全般における「体系」を教室活動でいかに捉えるのかについて考察することにより,「体系」を取り直すことが本稿の所在である。
キーワード: 日本語教育,日本語文法,日本文化,何を,体系,自立的な思考
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言語表現の問い直しから言語による思考の活動が反映する「現実」の問い直しへ
田邉裕理
概要: 従来の国語教育では,授業担当者が学習者に一方的に言葉を与えながら授業が進み,学習者にそれらの言葉を問い直す余地を与えない側面がある。本稿は『言語による思考の活動が反映する「現実」』が問い直される言語教育として,『総合活動型日本語教育』を取り上げ考察する。「語の一般化」に気づくことが自らの「現実」を問い直すきっかけになり,さらなる言語活動に繋がると考える。
キーワード: 言語による思考の活動が反映する「現実」,概念の「一般化」,「現実」同士の乖離
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「正しい日本語」を教えることの問題と「共生言語としての日本語」への展望
三代純平,鄭京姫
概要: 日本語教育で教えるべき「正しい日本語」とは何か。近年,日本語教育内外で「正しい日本語」に対する批判があがっている。本稿では,まず「正しい日本語」の問題を3つの観点から指摘する。一つは「正しい日本語」の歴史の問題,もう一つは「正しい日本語」による差異化の問題,最後に「正しい日本語」によるコミュニケーション阻害の問題である。次に,これらの問題を抱えた「正しい日本語」に代わるものとして岡崎(2002)や牲川(2006)により提唱されている「共生言語としての日本語」を取り上げ,その意義と課題と今後の展望について論じる。
キーワード: 「正しい日本語」,「共生言語としての日本語」,クレオール
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言語教育において「声をあげること」を展開することの意味をめぐって
山本玲
概要: 言語教育を通じてどのような社会を展望するのかといった価値論的見地から,言語教育や日本語教育の目的を捉え直す必要がある。本稿では,その一つの可能性として「声をあげること」を展開することの意義について検討する。自分が「おかしい」と思ったことに対して,自分の意見を他者に向かって日本語で表現することは,学習者の表現能力の向上を促すだけでなく,学習者自身の自己実現に助力を与えると同時に,教室外の社会をよりよい方向へと動かしていく原動力になることと無縁ではない。
キーワード: 「声をあげること」,言語教育の目的,環境問題,「無関心」
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書評

『日本語教育と日本事情― 異文化を超える』を読む――学習者主体は従来の日本語教育をいかに乗り越えたか
佐藤正則
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近況

阿部葉子・市嶋典子・大西博子・大野のどか・小田晶子・狩野倫子・金相郁・キムヨンナム・佐藤正則・田中里奈・田邉裕理・鄭京姫・橋本弘美・古屋憲章・松井孝浩・宮口さや子・村上まさみ・山本冴里・山本玲・尹菊姫

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編集後記

A.アンドラハーノフ(今号編集責任者:言語文化教育研究室 博士課程)
いよいよ「言語文化教育研究」5号の出版にこぎ着けました。今号も言語文化教育研究室の関係者を中心として,原稿の募集と執筆から査読,そして最終的な編集までの作業が行なわれました。その間の取りまとめを担当した私から,この場を借りて私見を述べさせていただきたいと思います。構成からも明らかなように,今号も論文・書評・近況という3つの部に分かれています。
論文では,「実践研究」の必要性を標榜するこの研究室らしく,今号も実践的なデータを基にした論調が主流を占めることがわかります。教室内における参加者の相互関与によりことばを創りだす言語教育,能力としての自律性への転換の必要性,他者との共生に向けた自己を語る活動,日本語教育における「体系」の追究,言語活動によって自らの「現実」を問い直す可能性,「正しい日本語」現象の原因と共生日本語への提言,「声をあげる」日本語教育,というようにすべての論文は,教育学の最新の成果を取り入れ,日本語教育学において最先端を歩んでいる印象を受けます。この研究室の火元責任者である細川英雄教授が最近打ち出している「クレオールとしての日本語」という日本語教育における考え方に通じるものもありますが,すべての論文はそれぞれの作者独自の研究法や立場で書かれているものです。
書評では,作者が学習者主体の問題に注目し,細川英雄の初期の著作の丁寧な説明を加えながら批判を行なっています。
近況では,この研究室の在学生の日々の成果や悩み,修了生の活躍先からのお便りを読むことができ,読者にとっても同業者からのヒントとして一読に値するでしょう。
ここで,日本語教育そして言語教育全般における私見について少し述べたいと思います。国内外の日本語教育においてその内実について様々な考え方があり,目標やその到達方法も百花繚乱の状況です。私も以前からこの問題を意識しており,道具としての言語やそれに関する知識になりがちな第二言語教育では,教育という観点から何を目指せばよいのかという点に関心を寄せてきました。現時点で言えるのは,言語教育の目標は自分の目で現実を見据える批判性であり,さらに重要なことは自分の力で現実を創る創造性ではないかという作業仮説です。逆を見れば,この能力を育むために言語教育は大きな可能性を持っているといえます。その可能性を切り拓くために,技能伝達のソフトウェアとしてではなく,教育者としての言語教師はお互いの多様な教育観を尊重しながら議論を重ねるべきであり,自分の経験をさらすことを恐れずに建設的な話し合いを進めることが必要不可欠な課題だと考えます。
「言語文化教育研究」がいっそう積極的な発言の場,より開かれた議論の素材になることを心から望むとともに,読者のあらゆる形のレスポンスを期待しつつ,今号を皆様にお届けする次第です。

教師一人ひとりの思想
細川英雄
「教室は芸術だ」といったのは,たしか,かのルドルフ・シュタイナーだったと思うが,言語教師にとっての教室活動の意味を考えることは,とても重要なことだと思う。何のために教室はあるのか。教師が持っている技能としてのことばを,効率よく教えることが目的だったら,そのような目的のために作られたテキストとマニュアルによって,おそらく実験室のようなところで,密やかに行われることになるだろう。 そして,その改良のために,日々の活動はデータ化され,分析されて,その教室の効果および教師の技量を公開する材料として使用されるだろう。その当面の姿勢は,より良いクラスは,学習者のためにある,学習者のニーズに応えることが,この教室の使命だ,という固い信念に裏打ちされている。しかし一方で,このような教室の教師には一つの疑念があるに違いない。それは,「なぜ私はこのような仕事をするのだろうか」「私がデータを取ることの意味はなんだろうか」という疑念であろう。データを取ることに対して常に良心の呵責にさいなまれつつ,教室活動を行わなければならない不幸がここにある。シュタイナーが言ったように,教室を一つの作品として捉えるなら,教室は公開を前提にして行われなければならない。この公開という意味は,教室の設計段階から,いかにこの公開のコンセプトが教室活動として組み込まれているかということだろう。そうした公開の理念によって,教室が設計されるなら,教師はデータを取ることに対して良心の呵責にさいなまれる必要はなくなる。なぜなら,当初から教室は公開されるものとして設計されるのだから,どのように公開するかは,参加者が決めればいいことだからである。参加者それぞれがいい作品を作ろうという意思のものに,その教室空間に集合し,そこで,どのような公開が望ましいかという議論の合意が得られれば,まさに教室は完璧なまでにガラス張りとなる。そうなれば,データ許可の取り方などについてもっともらしく自らの経験談を語るというような,ヒポクリットな場面にもはや出会わなくてすむだろう。なによりも,教師自身の,依存性と常識性に満ちた姿勢が,創造的で挑戦的なものにかわるだろう。だからこそ,やはり教室活動は,教室活動そのものの改良以前に,教師一人ひとりの思想にゆだねられているということが見えてくるのだ。
*今回の編集は、アンドラハーノフ・アレクサンダー君に編集長をお願いした。投稿規定や査読体制もようやく整ってきた。関係各位のますますの健筆を祈りたい。