言語文化教育研究:Studies of Language and Cultural Education

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第7巻(2007年秋)

論文

活動型日本語クラスにおける「活動を認識するための活動」の重要性――「評価項目決め」活動と「終わりに」執筆活動の実践から
古賀和恵,古屋憲章
概要: 筆者らは,活動型日本語クラス「考えるための日本語 4」において,「評価項目決め」,及び「終わりに」執筆の改善を試みた。その結果として,活動型日本語クラスにおける「活動を認識するための活動」の重要性を認識するに至った。本稿では,二つの活動の活動内容,及びそれらの活動が,全体の活動の中でどのような形で「活動を認識するための活動」として組み込まれていたのかを記述する。そして,その上で,活動型日本語クラスに「活動を認識するための活動」を組み込むことの重要性について論じる。
キーワード: 活動型日本語クラス,学びの実感,「活動を認識するための活動」,「経験の対象化とその意味づけ」,学びの継続性への可能性
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理解される存在,有能感を感じられるような情緒面での配慮の可能性――学習者の自発的行為の動因分析から
河上加苗
概要: 本稿では,支援活動としての学習者の意欲を取り上げ,学習者が「考えていること」を表現するために必要となる視点を,学習者の自発的行為の動因分析から考察するものである。具体的には,2007年度春学期早稲田大学日本語教育研究センターのクラスである「考えるための日本語 1」の参与観察を基に学習者の自発的行為の発現プロセスを分析した。今回の分析では,学習者の自発的行為の動因には,満足感や有能感,他者受容といった情緒面の視点が影響していることがわかった。よって,教室内で学習者の有能感を高め,他者受容を得られるような情緒面の配慮を行うことが,学習者の「考えていること」を引き出す上で,どのような可能性があるか論じる。
キーワード: 自発的行為,学習者主体,動因,有能感と他者受容,内発的学習意欲
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文法的に「正しくない」表現を担当者はどのように扱うべきか――形容詞の否定形を中心に
松井孝浩
概要: 本稿は早稲田大学日本語研究教育センターで2007年度春学期に開講された活動型授業「考えるための日本語 1」の発話データから学習者が主に形容詞の否定形をどのように表現したかを分析したものである。本コースでは教科書を使用せず,基本的に文法説明を行わない。従って学習者は自分の伝えたいことを表現する過程を経て経験的に表現形式を学習する。そのような場合,文法的に「正しくない」表現を担当者はどのように扱うべきだろうか。本稿ではこの問題について本コースを担当したAの教育観を中心に考察を行う。
キーワード: 形容詞の否定形,「正しい日本語」,ネイティブ,ノンネイティブ
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「他者との関係づくり」のための教室活動とは何か――「考えるための日本語 1」への参与観察を通して
古川奈美
概要: 「他者との関係づくりの場」として設定された「考えるための日本語 1」で,学習者同士のインターアクションの少なさが気になった。他者に自己を開くための個人のテーマの固有性の追求と,それをめぐるインターアクション。この活動は,どのように「他者との関係づくり」につながっているのか,そもそも他者との関係づくりとは何なのか。他者のテーマに関わるなかで変化していった,ある一人の学習者の声と,そのテーマの観察をもとに,「他者との関係づくり」とは何か,そのような場としての教室活動がどのようなものであるかを考察する。
キーワード: 他者との関係づくり,自分を開く,他者のテーマ,自分の問題として捉える,声
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近況

  • アンドラハーノフ・アレクサンダー「メディア・リテラシーの考え方によるクリティカルかつクリエーティブな日本語教育の実践をもとめて」
  • 五十嵐まゆ「たまご先生」
  • 大野のどか「共に作った地域日本語教室」
  • 古賀和恵「とにかく話した」
  • 佐藤正則「見えてきたもの」
  • 張珍華「アメリカ・グリネルカレッジより」
  • 鄭京姫「マックドナルドでコーヒーは飲めない」
  • 古川奈美「他者の世界を「内側から見る」?」
  • 古屋憲章「とにかく形にしたかった」
  • 松井孝浩「実践研究における倫理について考える」

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編集後記

鄭京姫(今号編集責任者:言語文化教育研究室 博士後期課程2年)
今年の夏は確かに暑かった,いや,熱かったです。
連日,猛暑が続いたのに,いつの間にか冬の匂いがしてきています。はやい!
『言語文化教育研究』7号は,その暑かった夏の初めから始まりました。論文投稿の応募から,論文執筆,その投稿された論文については査読を行い,修正を施した上で原稿化し,最終的な編集にいたるまで,夏と秋,冬にかけて作業を続けてきました。
研究論文では,活動型日本語クラスに「活動を認識するための活動」を組み込むことの必要性を筆者自らが行った実践を振り返り,改善点をあげるなど,筆者らの問題意識がクラスの担当経験に根ざしているものがありました。
さらに,4本のうち,3本は,「考えるための日本語1」の参与観察を基にした論文が書かれています。その中には,学習者の自発的行為の発現メカニズムを明らかにし,学習者主体を再考したもの,学習者の自発的な発言を生む要因を考察したもの,初級クラスで「正しい日本語」を使わない担当者の教育観・言語観について,形容詞の使用というデータを軸に考察し,授業における発話データをもとに筆者が自身の教育観を内省した過程が描き出された論考など,すべての論文が大変興味深いですし,読む人にもいろいろな角度から考えさせられると思います。
近況では,言語文化教育研究室の在学生や修了生を問わず,言語文化教育研究に興味がある方からも日々の考えていることや成果,悩み,お便りが書かれております。
今回,『言語文化教育研究』7号の編集を取りまとめながら,『言語文化教育研究』を通して広く発信していく場になってほしいと願うとともに,『言語文化教育研究』に多くの論文が掲載され,さらに充実を図っていく必要性を感じました。そのためにもみなさまからの積極的なレスポンスを願いながら,『言語文化教育研究』7号をお届けします。

クレオール性のさなかで
細川英雄
9月末から特別研究期間扱いの交換研究でパリに来ている。
研究テーマは,「言語教育のクレオール性をめぐって」ということで,複言語・複文化状況におけることばの教室の混淆性について,さまざまな現場に参加し,さまざまな立場の人と意見を交換しようというのが今回の目論見である。
ところが,不思議なことに,この「クレオール性(cleorite)」ということばが,フランスではすぐに通じない。「そんなことば,辞書にないじゃない」という返事が返ってくる有様である。ある言語学者からは,「複言語のことか」という質問が返ってきた。
こうしたことばの使い方をめぐる問題は,言語教育の用語にも関連している。
先日,地方の学会に参加したが,そこでは,コミュニケーション能力ということばに代わって,実践能力という用語が頻繁に使われていた。用語の使い方について質問してみると,コミュニケーション能力は,コミュニカティブ・アプローチのころからのはやりことばだったが,2001年のヨーロッパ共通参照枠の発表以降,この実践能力という言い方が使われるようになり,より具体的には「言語活動的インタラクション能力」という言い方がなされるようになっているという。ちなみに,職業分野を問われることがしばしばあるので,言語学者ではなく,言語活動学者という言い方をしているのだが,これにも同じような反応が返ってくる。この「言語活動学者」という表現そのものに強い拒否反応を示す人と,逆に大歓迎だといわんばかりに諸手を挙げて賛同してくれる人もいておもしろい。
世界的な傾向なのかもしれないが,さまざまな立場の差異がかなり明確になってきていて,そして,その差異を考え,そこに意味を見出そうとしている人たちは,それぞれの人が何らかの対話を求めているという気がする。
言語教育におけるクレオール性というひとつのキーワードから,いろいろな問題が立ち現われてきた。おかげで旧植民地をめぐるという壮大な移動計画は今のところ宙に浮いている。パリはさまざまな人的交流の拠点としての相互文化性の宝庫だ。この街の魅力からなかなか抜け出すことができないでいる。
今回,僕が日本にいないということもあって,本誌の編集はすべて鄭京姫さんにやってもらった。さまざまな合議制・査読システムを確定してから,4号が経過したと思う。「近況」にも,それぞれの立場や意見が色濃く出るようになった。少し距離を置いた教育研究支援もまた楽しい。(ほ)