論文
- 日本語教室における表現活動の一考察――考えの共有化をめざす教室参加者間の相互関与の試み
- 概要: 本稿では,日本語を表現する教室がいかなるコミュニケーション能力の涵養をめざすのかを述べ,筆者の実施した表現活動で観察された教室参加者間の相互関与の局面を実践データとして具体的に記述することを試みた。まず,従来,多くの日本語教育実践に取り入れられている教室の「外」に想定された「日本人との接触」によってネットワークの多元化を狙う実践を批判的に検証し,その問題点を指摘した。次に,教師-学習者間の一元的・依存的コミュニケーションを克服するために,教室内における参加者の相互関与に注目する意義について述べた。最後に,「日本人のコミュニケーション」をモデルとして日本語習得をめざす教育実践とは異なる立場から,「意味づけ論」を援用し,考えの共有化に向けて教室の参加者が関与し合い,互いに議論の可能な「共通基盤」を形成し,言葉を探し,創り出し,創り直していく表現活動の重要性を実践データの分析から提示した。
- キーワード: 「日本人との接触」,相互関与,考えの共有化,一元的コミュニケーション,共通基盤の形成
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- 日本語教育における「自律性」の転換
- 概要: 本稿は,80年代から多くの論文でみうけられるようになった日本語教育における「自律性」という概念を,その文脈と内実を問い直すことによって問い直したものである。その結果,学習・言語能力観の点から「自律性」の転換が必要であることがわかった。それは学習方法や学習内容を技術・知識として習得するための「自律性」ではなく,コミュニケーションの主体としての「自律性」への転換である。結論では,それを教育実践へと具体化するための課題を示した。
- キーワード: 自律性,多様性,コミュニケーション,社会,言語
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- 自己を捉えなおし,自己を語る活動についての一考察――「総合活動型日本語教育」におけるある「帰国生」の事例から
- 概要: 集団カテゴリーへ自己同一化して行われるコミュニケーションは,カテゴリー間の境界を構築し,対人コミュニケーションを阻害する。本稿では,アイデンティティを流動的・複層的なものと捉えなおしたうえで,「総合活動型日本語教育」を「自己を捉えなおし,自己を語る活動」という視点から,「帰国生」と呼ばれる一人の受講生の活動を通して,その意義を考察した。その結果,他者から規定されるアイデンティティを主体的に捉えなおし,語りなおすことにより,「帰国生」という集団カテゴリーの表象に揺さぶりをかける可能性,また,「自己を捉えなおし,自己を語る」活動が自己理解,自己肯定に結びつき,「他者との共生」を可能にする「自己との共生」につなるのではないかという二つの意義を見出すことができた。
- キーワード: 「帰国生」,アイデンティティ,自己を捉えなおし,自己を語る活動,「総合活動型日本語教育」
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- 日本語教育における「体系」とは
- 概要: 近年日本語教育では,学習者主体の理念を中心に様々な形態の教室が設計され,従来までの日本語教育から抜け出し,新しい方向性を見出す傾向が多く見られる。本稿では,その変化の大きなポイントとなっていることを「何を」という「体系意識」と規定し,その「体系」とは何か,また,それは戦後日本語教育から現在に至るまでどのように取り扱われてきたのかについて考える。特に本稿では,筆者の日本語学習暦において自ら感じたものを問題意識の中心にし,日本語文法,日本文化における「体系」を考察する。また,日本語教育全般における「体系」を教室活動でいかに捉えるのかについて考察することにより,「体系」を取り直すことが本稿の所在である。
- キーワード: 日本語教育,日本語文法,日本文化,何を,体系,自立的な思考
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- 言語表現の問い直しから言語による思考の活動が反映する「現実」の問い直しへ
- 概要: 従来の国語教育では,授業担当者が学習者に一方的に言葉を与えながら授業が進み,学習者にそれらの言葉を問い直す余地を与えない側面がある。本稿は『言語による思考の活動が反映する「現実」』が問い直される言語教育として,『総合活動型日本語教育』を取り上げ考察する。「語の一般化」に気づくことが自らの「現実」を問い直すきっかけになり,さらなる言語活動に繋がると考える。
- キーワード: 言語による思考の活動が反映する「現実」,概念の「一般化」,「現実」同士の乖離
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- 「正しい日本語」を教えることの問題と「共生言語としての日本語」への展望
- 概要: 日本語教育で教えるべき「正しい日本語」とは何か。近年,日本語教育内外で「正しい日本語」に対する批判があがっている。本稿では,まず「正しい日本語」の問題を3つの観点から指摘する。一つは「正しい日本語」の歴史の問題,もう一つは「正しい日本語」による差異化の問題,最後に「正しい日本語」によるコミュニケーション阻害の問題である。次に,これらの問題を抱えた「正しい日本語」に代わるものとして岡崎(2002)や牲川(2006)により提唱されている「共生言語としての日本語」を取り上げ,その意義と課題と今後の展望について論じる。
- キーワード: 「正しい日本語」,「共生言語としての日本語」,クレオール
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- 言語教育において「声をあげること」を展開することの意味をめぐって
- 概要: 言語教育を通じてどのような社会を展望するのかといった価値論的見地から,言語教育や日本語教育の目的を捉え直す必要がある。本稿では,その一つの可能性として「声をあげること」を展開することの意義について検討する。自分が「おかしい」と思ったことに対して,自分の意見を他者に向かって日本語で表現することは,学習者の表現能力の向上を促すだけでなく,学習者自身の自己実現に助力を与えると同時に,教室外の社会をよりよい方向へと動かしていく原動力になることと無縁ではない。
- キーワード: 「声をあげること」,言語教育の目的,環境問題,「無関心」
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