各ご意見等を項目別に分け,ご質問を各項目の終わりに入れました。また,そのご質問への回答を△をつけて付しました(細川担当)。最後に,メッセージライブでのやりとり全体を振り返ったコメントを細川・小畑の順で書きました。ご参照ください。
7.対談者からのコメント
「なぜ」という問いから自分誌活動の実践へ(細川英雄)
今回のメッセージライブでは,研究,教育,生活が一体なものであるということを提案しましたが,それに対しては,いろいろなご意見をいただきました。
多くは,これまで自分がとらわれていた枠組みそのものが自分自身で作っていた固定観念によるものだと気づいてくださって楽になったというような感想をいただき,メッセージの一つは伝わったかなと思っています。
仕事と生活の一体化については,イメージが湧かないというご意見もいただきました。生活と仕事を切り離すという発想は,近代の,しかも高度経済発展の中で生まれたものですから,そうした生き方へのクリティカルな視点が必要だと思います。たとえば,定年後に何がしたいのかわからなくなって濡れ落ち葉になるという例がしばしば指摘されていますが,これは,仕事と生活を切り離した結果,自身の生活のテーマを持たなかった例として挙げられるでしょう。
研究,教育,生活のテーマは,表層的には異なっていても,その奥深いところで一つにつながっているはずですから,それを発見することが重要であると思われます。私が提案した自分誌を描くということは,自分とテーマの関係を考えることによって,その無意識のテーマを意識化するというところにあります。
あわせて,研究をするには,誰でもテーマを持っているはずだというご意見もあるように,すべての人はすべてのことにテーマを持っているはずです。ところが,その深層にある無意識のテーマに気づくには,それなりの意識的な活動が必要だということなのです。それを発見するために必要なものが,「なぜ?」という問いだということもお話ししました。
たとえば,誤用分析のようなことをテーマとする場合にも,「なぜ誤用なのか」という自分への問いが不可欠だということです。この問いのないまま,ただ先行研究を操作してデータを分析しても,何も出てきません。
一般的な研究の目的というのは,一般的にこういう問題があって,それを解決するために私はこういうアプローチをして,問題解決に貢献しますみたいなことなのかもしれないですけど,それでは,一般論しか語れません。そういうことではなくて,「なぜわたしは誤用分析をしなければならないのか」という問いを徹底的に自分に問うことなのです。
その答えは,学生の将来を考えたうえで誤用があると大きな差し支えがあるとか,誤用のせいで学生の外国語学習の差し支えになった,とか,というような他人事の話ではなく,自分自身が「誤用」という現象と向き合うことの意味と考えたらいいでしょうか。
ここで注意しなければならないのは,この「自分と向き合う」ということは,決してプライベートな話をするということではありません。発見したテーマと自分との関係を語ることなのですから,個人の経験や体験と無縁ではありませんが,その経験・体験そのものを語ることではないのです。
あくまでも「なぜ私は誤用と向き合うのか」という問題意識を明確にするということなのです。その結果,「誤用」そのものからテーマが変わるということもあるかもしれませんね(メールマガジン『ルビュ言語文化教育』521号参照)。そうすると,はじめは「誤用」という現象に注目していたのだけれど,その奥にある別のテーマに気づくということもあるわけです。つまり,自分が本当にやりたいことは何かということを発見するということなのです。
そして,その「「なぜ私は○○と向き合うのか」という問題意識」は,生活感覚の中での自分自身への問いでもあるわけですから,生活を基にしつつ,研究や教育のすべてにつながっているだろうということなのです。
繰り返せば,それらの一体化・一体性を自覚するのは,自分自身ですから,そのような自覚的な自分をどのように形成するかを考えなければならないでしょう。
これは分野・領域を問わず,絶えず行われていることだと思われます。かつてノーベル物理学賞を取った湯川秀樹がそのエッセイの中で同じようなことを書いていた記憶があります。ですから重要なのは,対象の中身に関する情報ではなく,「なぜそのテーマなのか」という自分自身の構えであり,この構えは,すべての人の共通するものであると同時に,その人を形成するものであると私は考えているのです。
だからこそ,ことばによる活動をとおして,それぞれのテーマに気づき,そのテーマの意味について考えること,これがことばの教育の具体的な目的であると私は思うのです。それが自分とテーマの関係を描くという自分誌活動実践によって見えてくると考えています。
人として生きて行くこと(小畑美奈恵)
今回のメッセージライブを細川先生と小畑との対談,という形で行うことになったのは,夏に細川先生にお会いした時に小畑が次々と細川先生に質問を投げかけたことがきっかけでした。その後,このメッセージライブを行うまでに何度も細川先生とやりとりをさせていただき「個人と社会の関係性について」,「公開性,社会性について」,「ことばの市民について」など,話し合いを重ねてきました。その中で,細川先生から「小畑さんは社会というものを固定的な枠組みとして考えているのかな」と投げかけられ,はっとしました。私の凝り固まった以前の考えでは,自己と他者と社会との関係性についても,自分があって,他者がいて,そしてみんなが同じように見ている大きな「社会」というものがある,と。そうではないんだ!全部,自分なんだ!一人ひとりが自分の目をとおして社会を見ている,自己=他者=社会なんだ!と気付いた時,だんだんと気持ちが楽になり,解放されていくのを感じました。
そして臨んだメッセージライブでしたが,細川先生とフロアの方々とのやりとりの中で,自分でも気付かぬうちに私は「不安」ということばを連発していました。きっとそれは「解放」を感じたと同時に,全ては自分にある,という自覚性に対する「責任」も感じてきたのだと思います。
研究‐教育‐生活が一体なものである,ということを,私は細川先生の生き方をもって教えていただきました。そこで気づいたことは,研究-教育-生活を一体にするためには,解放と同時に全責任を自分で負うという覚悟を持つことです。仕事と生活を切り離して,割り切って考えていた頃より,実はもっと大変なことなのかもしれません。人として生きて行く生活全般に渡って,自分が感じたこと,考えたことにもっと敏感に意識的になり,自覚し,自分の気持ちを逃さないこと,そしてそれを公開していくこと,それが私の「自分誌」の第一歩かなと考えています。