テーマ趣旨:言葉するわたしたち
「言葉のなかに生があり,言葉のなかに死がある」(ハワイのことわざ),「異なる言語を得るということは,ふたつめの魂を持つということだ」(カール大帝)……そう,世界のあちこちで繰りかえし語られている。わたしたちが人として生きることと「言葉する」ということは,どうあっても切り離せない。
わたしたちはいま,数値化できる尺度で「客観的な」成長をつねに求められ,その数値によって順位づけされる社会を生きている。言語教育の分野においてもまた,近年,数字への置き換え可能な枠組み・尺度は幾つも開発されてきた。そこでは,どんな数字によって「客観性」を示し公に認められる機関・教師であることができるのか,どのように学習者をランクアップさせていくのかという点が,議論の中心となっている。
けれども,学習者は学習者である前に,生きた人間である。社会や文化に埋めこまれつつ,それぞれの個性をもって,自身の言葉を編みながら生きている。教師もおなじだ。だから言語教育の場は,ランクアップを目指し続ける場というよりも,さまざまな言葉と個性ある生を持つ人々が集い,混ざりあい,皆でまた新たな言葉を編んでいく場にもなり得るはずだ。わたしたちはそのような言語教育の姿を,「言葉する」という表現で思考・志向する。
「言葉する」ということが,「数字」上での成長と等価であるはずはない。生きることと言葉することとの一体性に立ちかえることが必要ではないか。わたしたちは,社会的に認証された階段をのぼりつづけるという生きかたに収斂していく言語教育に同意できない。言語教育の場により豊かな可能性を探り,多様なわたしたちが多様に生きられる場としての社会・言語教育を構想することが必要だと考える。
そのため,本シンポジウムでは,「言葉する」ことと生きることの重なりを,さまざまな立場で探究している方たちに登壇していただく。それぞれに異なるスタンスや物の見方,価値観をもって「言葉する」ことに関わってきた方たちだ。それぞれの立場から見てきたもの,見ようとしてきたものについて語っていただくが,登壇者の語りを通じて,参加者もまた,多様なわたしたちが多様に生きられる場としての言語の場を想像し,そこに誘われていくだろう。それらを重ねあわせることで,ミクロレベルからマクロレベルに至るまで,様々なかたちで展開される言語のありかた,言語教育のありかたについて,考えられる場を提供したい。「言葉するわたしたち」という表現を杖として光として,創造的に思考をめぐらせる場をつくりだしたい。
(年次大会委員:山本冴里,石田喜美,大平幸)